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4.歩いたことのない男の話

あるところに、歩いたことのない男がおりました。 なぜかというと、その男は、お母さんのお腹からおぎゃあと産まれた時から、ずっと、中に浮かんでいるからです。お母さんと、男を結んでいたへその緒を切るのに、お医者さんは梯子を使わなくてはいけませんでした。 お父さんもお母さんも、お医者さんも先生も、その男を地面にたたせることができませんでした。一度なんかは、とっても重いバーベルを男の足に括り付けたことがありますが、男はバーベルと一緒にふわふわ空に浮かぶのでした。 お母さんは男の腕にきれいな色のリボンを結んで、しっかり握り、お買い物や公園に行きました。学校には仲良くなった友達が、リボンを握って連れていき、教室の狭いドアをくぐらせてくれました。みんな最初はびっくりしましたが、みんなすぐに慣れました。 男はみんなに好かれました。なぜかっていつもニコニコ笑っているからです。男が笑うと、空からキラキラ光がふるようで、皆嬉しくなりました。卒業式の日には、真っ赤にホホをそめ、ラブレターをくれる女の子さえいたほどです。 どうして僕は、空に浮かんでいるんだろう。 どうして僕は、みんなみたいに地面を歩けないんだろう。 悩んでみた日もありますが、すぐに退屈になってやめました。それよりも浮かぶということは、とても愉快な事でした。誰にも邪魔されず、本も読めますし、信号だってありません。夜はぐるりと布団を巻き付けば、どんな高級ベットより快適でした。 やがて男も恋をしました。 男は空から大声で、女に愛を告白しました。女はびっくりしましたが、恥ずかしそうに「わたしも」と答えました。結婚式は盛大で華やかで、青い空に浮かぶ、白いタキシードをきた男の姿は、まるで天使のようでした。いつか男のお母さんが結んでくれたきれいな色のリボンは、しっかりと、女の手に結ばれたのでした。 じきに男と女の間に可愛い男の子が産まれました。その子は、宙に浮かびませんでした。けれど男に良くにて、いつもニコニコと笑う子どもでした。ねんねだった子が、歩くようになりました。男は真っ白で柔らかい、小さな靴を買ってやりました。ぴょんぴょんはねるようになり、走るようにも、なりました。男はゴム底の丈夫な靴を買ってやりました。息子が大きくなるたびに、新しい靴を買ってやりました。男はとても幸せでした。 何年かたち、息子は立派に成長し、初めての給料で男に贈り物を買いました。それは男がほしがっていた、キャラメル色をした立派な革靴でした。男は心から喜びました。すぐに履いて、ほれぼれと自分の足をみて、眠るときも脱ぐ事はありませんでした。 ずっとずっと、その靴を履き続けました。 やがて男は死にました。死んでもなお宙に浮き続ける男の体を、女と息子は花で飾りきれいにしてやりました。何十年も履き続けた靴は、まるで新品のようでした。毎日男が磨いていたせいでした。脱げ落ちないようにと、靴ひもは、きつくきつく結んでありました。 女は、男の腕のリボンをほどいてやりました。すると男の体はふわりと空に舞い上がり、電信柱より高く、ビルよりも高く、飛行機雲さえ超えて、やがて見えなくなりました。 息子はときどき夢に見ます。男が月の上を歩く姿を夢に見ます。あのキャラメル色の革靴は、月の砂で白く汚れ、それでも男は幸せそうにニコニコと笑っているのでした。 作 たみお

Short Story
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