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12.恋をした靴の話

その靴は自由に歩く事ができました。 まるで透明人間が履いているかのように、靴だけが、右、左、と、ぺたぺた歩くのです。ですから靴は靴になったときから自由でした。行きたいところに行けました。 ショウウインドウで人待ち顔に並んでる、ぴかぴかの靴たちや、とある家の玄関で、忠実に整列している靴達のことを、君たちに意思はないのか、と馬鹿にしました。 僕は、夜明けを探しに旅に出る靴だ。意思のない君たちに夜明けはない、明日はない、と偉そうに演説することもありました。 そんなとき聞き手の靴達は、つま先さえぴたりと動かず、ただ静かに靴を見つめるのでした。 靴は、あらゆる国を旅しました。一度歩いた道は二度と歩かない。靴は自由でした。 あるとき、靴は一人の女の子を好きになりました。迷わず靴は想いを告げました。けれどあっさり振られてしまいました。 あなたみたいな革靴はいらないの、私が今好きなのはピンクのエナメルのパンプスよ。 靴は泣きました。心が痛くて苦しくて、声がでません。旅にでようにも、行きたい場所が解りません。おうおうと泣きながら、ああ僕は恋をしたのだ、と靴は思い知りました。靴ひもさえ結べずに、泣きはらした靴は、もう一度女の子の前に行きました。 君が僕を好きにならなくてもかまいません、僕が君を好きなのだから。ただ君のそばに置いて欲しいのです。 それならいいわよ、と女の子は言いました。 靴は歩くのをやめました。 毎日、風の当たらない玄関で静かに整列しておりました。 毎日、女の子が出て行って、帰ってくるのを待ちました。 毎日毎日、どこへも行かずに、待ちました。 ある静かな夜、靴は思いました。 僕は特別な靴だった。僕は行きたいところに行く事かできた。あの子に恋をするまでは、僕は特別な靴だった。僕はもう一度、僕になるために、恋をやめよう。そうしよう。僕は特別な靴なのだから。 靴はそっと歩き出しました。キィと扉が開いて冷たい夜風が舞い込みました。見上げる空には、青白くて細い月がかかっておりました。 それからもう二度と、靴は恋をしませんでした。右、左。とぺたぺたと、どこへでも、どこまでも行きました。ときどき夜に隠れておうおうと泣きますが、旅をやめることはありませんでした。 作たみお

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